拓朗亭の自己紹介
小さな店ですが、おいしい蕎麦と、おいしい料理を求めて、まっしぐらに進んできました。
今までの、ささやかな歴史を、以下にご案内します。少々、長くなりますが、当店で、料理ができるのをお待ちいただく間など、お時間のあるときに、お読みください。


拓朗亭の、ささやかな歴史と、主人の自己紹介
1975年 西洋料理に憧れ京都タワーホテルに入社。
1979年 結婚。
1983年 伊勢志摩観光ホテルの高橋忠之料理長の料理とその思考に感銘。
1984年 義父の「蕎麦打ちを一緒に習いに行かないか」の一言で人生が変わる。
1985年 「手打麺処 拓朗亭」を開業。
1992年 黒姫「ふじおか」詣でが始まる。石臼の研究開始。
1994年 石臼自家製粉(京都府内初)を導入。
1995年 生粉打ちにて「冷たい蕎麦」だけを販売する店に、それに伴い冠名詞を「丹乃國蕎麦」に変更。
同 年 関西メディアの重鎮「あまから手帖」で紹介されると 来客数が急増、また各メディアにも相当数紹介され、
「そば屋開業」を目指す方達が来訪。指導に乗り出す。
1997年 使用していた「電動石臼」の製粉状態に納得がいかず「石臼の自主製作」にかかる。
駐車場問題から移転を試み場所探しが始まる。
蕎麦料理と会席の勉強が始まり、それらを求めて行脚を開始。
群馬県前橋市の「会席蕎麦 草庵」の天婦羅「花衣」に驚愕。
以後5年間に十数回訪れ、その手法を盗もうと試みるが撃沈。
1999年 山形県西村山郡西川町の清流庭園 山菜料理 玉貴 の思考、 物事にとらわれない発想から提供される創作料理に圧倒。
「石臼自家製粉」へと突き動かした当時黒姫に在った「ふじおか」「玉貴」そして「草庵」と言う関西からはぐるりと回ると延べ
2,000kmを裕に越すロングドライブが幾度となく繰り返される。
2002年 卓袱料理を求めて長崎に遠征。行程の都合で老舗は諦め、中休みのない店を探し「浜勝」へ。
リンガーハット系列の大手チェーン店とは思えない「料理」と、和洋中にとらわれない「卓袱料理」の楽しさを味わう。
2004年 駐車場問題を解消すべくロードサイドの中型テナント店に移転。
移転と同時に「拓朗亭」の最終着地点探しがはじまる。
また、この頃より近い将来蕎麦屋をとりまくリスクを警鐘。
2016年 8月、31年に及ぶ「蕎麦屋・拓朗亭」を廃業。
10月冠名詞を再度変更し「無国籍蕎麦会席 拓朗亭」を 現、亀岡市ひえ田野町太田油田11-2に最終拠点として開業。
2017年 5月、2013年に密かに完成をさせていた前橋・草庵の「花衣」の製造販売の許可を得に出向き、商品名の変更を条件に快諾を得る。 ※「花衣」は前橋・草庵が『製法特許』を持つ極めて繊細で珍しい 技法により 揚げられた天麩羅です。
2018年 現在に至る。
さて、現在の「無国籍蕎麦会席 拓朗亭」のお話。
少々乱暴で、独断と偏見のみで書き進めます。
本当に忙しい「蕎麦屋」を20年経験してきました。ただただ忙しいだけで儲けはさほどありません。世間からはとにかく忙しくしているので「ボロモウケ」しているものと誤解されておりましたが、「忙しい」のと「儲かる」のは別の次元の話と結果であり、1日に18~19時間は普通に仕事をしていたのですから。
純利益をを労働時間で割って時給を算出したら女子高生の時給より低かったので自分が最低賃金以下で働く優良社員だと痛感させられました。
或る時、同じくらい忙しくしている店で食事を摂った時、物凄く悲しくなった事があります。
店員さんはキビキビと働いているのですが、表情の無いロボットの様で、そこで食べている人達は食事を摂っているのではなく、「エサ」を与えられている様に思えて来てしまったのです。
「愚店も同じ様なことなのか」と思うと本当に辛く、悲しく、そしてベルトコンベアに乗せられたようなお客様が気の毒に思えて、いくらオイシイと思えるものでも動物で唯一「代金」を払って食事が出来る人様の食事が「これでよいわけがない」まして長時間待たされ出て来た「ざる蕎麦」は、わずか5分で食べ終わる。
「そば」等と云う食べ物は「そんなもの」だと言えばそれまでなのですが、「ごゆっくりどうぞ」の言葉が、どれだけむなしい事か。
本当に「ゆっくり出来る店を造ろう」「忙中閑あり、たまにはゆっくり食事もしたい」と思われた時に「拓朗亭にでも行くか」と思い出してもらえる店を造ろう、ホントに「楽しんでもらえ、お客様がワクワクされる料理を造ろう」。店とお客様との一期一会ではなく「提供する料理との一期一会」を感じてもらえる店を造ろうと漠然とした考えで何年も過ごしました。
発想は単純ですが、やるべきことは複雑です。
場所は、本当に色々と探して走り回りました。抱える両親の高齢化も考慮するとさほど遠くにも行けず、田舎といえども町の中心部に近い所は高くて、面積もさほど広くは取れません。
現、ひえ田野の土地をG.W中に折り込み広告で目にした時は一度はスルーしたのですが、どうも気になり、G.Wがあけて不動産屋に連絡を入れ、見に連れて来てもらいました。
築100年ほどの古農家が建っていたのですが、中を一度は見てみたくて見せてもらい、老朽化が激しいのと 間取りが悪く、リフォームは無理で「やるなら建て替えしかない」と思いながらも「ここは縁が無い」のだろうと、半ばあきらめ気分で玄関を出ると目の前に素晴らしい景色が飛び込んできたのです。
その景色を見た時それらは、一瞬にして「ここしかない」に脳内変換が行われお客様が椅子に座られ、同じ眺めをゆったりとした気分で楽しんでおられる姿を描くことができたのです。
ここなら「ゆっくりくつろいで、窓から見える景色を箸休めに食事を楽しんでもらえる」・・・『食事・・・』
同じやり方で、同じ蕎麦屋で営業すれば流行りはするだろうし、田んぼの真ん中で1日100人の集客も可能だったと思いますが、それでは「何の為に、齢を重ねてから多額の借金を背負い店を造ろうとしているのか」サッパリ意味が 無くなってしまいます。
料理人としての原点に返ろう。食べて頂きたい料理は多々ある。
愚店をご利用頂いたお客様が「誰かを連れて来たくなる」そんな『静かにゆっくり食事を楽しむ』事ができるメニュウ構成は「コース設定」以外には考えられませんでした。それなら提供する側の「これを食べてほしい」との思いは具現化できる。それは確かに店側の「押し付け」に過ぎないのかも知れませんが、近郊の方はもとより狭いと言っても日本全国、その総人口の1割ほどすら見た事も、食べた事も無い料理が在るとすれば、どうにかして食べて頂きたいとの思いが強かったのです。
こんな思いで・・・
個人零細店のリスクは総原価率だと思います。
大きな資本をバックボーンに持つ外食チェーン店は地域一括仕入れで原価を抑え、原材料数を減らして品数を造ると言う、パッと見は華やかな料理を所狭しと籠に入れたり並べたりと賑やかな事ですが、食べ始めると「ごまかし」が目に付き、一度、本当に笑ってしまった事があります。きっと店側は「あんなに喜んでいただいている」と勘違いされたのではない でしょうか。たしか一つの籠に8種類くらいの料理が乗っていたのですがほとんど同じ材料なので辟易とさせられました。
昼間のランチ「菊コース」の原材料数を何ケ月か調べると平均50種類、自家製率95%以上と言う、ほとんどを一人で賄う零細個人店ではかなり危険な領域での営業を行っております。これに伴う料理原価率の悪さを公的機関などからも指摘されるのですが、過去の飲食業界の不文律である「料理原価30%」を基本に置くとたちまちチェーン店に飲み込まれる羽目となります。つまり普通に「大手外食店」や「コンビニ」を意識し競合店として対峙しても勝ち目はないのです。
ならば原価と手間を惜しむ事なく掛けてお客様に納得してもらえる料理が提供できればと考えるのです。
これは「良いモノを安く売る事は使命ではあるが、決して良いモノは安くでは造れない」と言う基本姿勢であり、愚店の根幹であり、「美味しかった」は「満腹感」の喜びが60%以上、「楽しかった!!」は「満足度」が85%から自ずと出る言葉ではないか、お腹は満たされても、心が満たされなければ決して「善い食事の時間だった」とは記憶されないのではないか・・・
「あの時、拓朗亭で食べたアレは美味しかった・・・」と心に残る食事の提供こそが愚店が目標とする着地点だと考えます。
「今日は何を食べさてくれるのか?」と、ワクワクしながらお越し頂ければ幸いです。